ブレッド ブレイブ‐飼育勇者‐
一章 邪悪な魔道士(おお しんでしまうとは なにごとだ!)
【第1話】  悪夢そのものとも、夜すらまばゆく感じる暗黒の時代とも形容された「三十四人時代」から二百年。今、世界は平穏そのものだ。 初夏のこの時季、平原は青々と萌え、優しい風にそよいでいることだろう。 だろう、なんて言ったのは、俺にはそれを見ることができないからだ。今、周囲を見渡す俺の目に映るのは無愛想な壁だけである。収容者の運動不足を解消するための運動場をぐるりと取り囲む壁は厚く、そして高い。とてもじゃないが、壁の向こうをのぞき見るなんて芸当は巨人族でもない限り到底不可能だ。何故、こうまで高いのか。答えは簡単、俺たち収容者を逃がさないためである。 壁を前に俺は舌打ちした。いや別にそこまで草原を見たいわけじゃないんだけどね。ただ壁一枚向こうは自由な世界だ、なんてことを思うといてもたってもいられなくなってしまうのだよ。 俺は壁を殴りつけたい衝動をこらえ(壁殴り行為は逃亡行為と見なされて懲罰の対象だからな)庶務棟を見やった。堅牢さだけが取り得の無個性な建物だ。 耳の早い者の話では、依頼者が来ているということだ。 依頼が受理され、俺に指名が来れば、久しぶりに外の空気を吸えるのだが。まあ、確率は低い。現在、この収容所に収容されているものの数は百を下らないはずである。指名はその百人の中から選ばれる。 過度な期待は禁物と自分に言い聞かせていた、その時だった。 庶務棟の扉が開き、管理官が姿を現しこちらへ向かって手招きをした。 指名されたのは、俺だった。 庶務棟に立ち入ったのはほぼ一年ぶりだ。前回も今回と同じように指名を受けたためだった。というよりかは、普段俺たちは庶務棟への出入りは禁じられている。この収容所内で基本的に俺たちが自由に出歩けるところは宿舎と運動場と食堂だけである。 無機質な庶務棟の廊下を俺は黙って進んだ。見事なまでに殺風景な建物である。壁面には明り取りの小窓以外、何の装飾もない。この収容所を運営する「派遣協会」が成し遂げた偉業を考えると、質素に過ぎる造りである。無論、王族や神官が住んでるわけじゃない、宮殿の壮麗さや神殿の荘厳さは望むべくもないが、そこらに建てられた戦城《いくさじろ》よりも殺風景なのはどうしたことなのか。 何せ、三十四人時代の後、今の世界の平和を築いたのは派遣協会なのだ。世界を救ったものとして、もっと傲慢に権威をばりばりに醸し出した造りにしてもよさそうなものである。創始者の肖像画とか彫像とか飾るとかさ。実は俺としてはそうして欲しいのだ。そうすれば、偉そうに誰のおかげで・・・とか毒づけたり、落書きの一つも出来るんだが。 管理官に案内された部屋にいたのは、一人の若い女だった。 ほう、と思わず俺は声をあげた。 管理官が一瞥をくれた。そう睨まんでくれよ。喉元まで出かかかった「きれいなネーチャンじゃねえか」の一言は自重したんだから。 収容所暮らしとはいえ、女自体は別段珍しい存在じゃない。確かに収容所にいるのは男だけなんだが、そこはそれ、荒んだ男だらけの生活に潤いを・・・てな感じで、近くの町から女がここへやってくるのは頻繁にあることなのだ。 だが、それが清楚で上品な女となれば話は別だ。それもやんごとなきお方であればなおさらだ。 俺は自分の顔がしまらなくなるのを自覚しながら、訪問者を眺めた。 年の頃は二十歳には届いていまい。手入れのしっかりと行き届いた亜麻色の髪。艶やかな髪の下にある顔は小振りで色は白く透き通るようだった。瞳は大きく濡れており、色は褐色だ。 瞳の中には儚さと芯の強さが同居するのを認めて、俺はこの女が身分あるものであるということを確信した。ひょっとしたらどこかの王族か何かか。 俺の無遠慮な視線に気付いてか、女は眉をひそめ、怯えたような目をした。うん、いいねえ。いつも来ている商売女ではこうはいかない。 俺の下卑た心中に気付いたわけでもあるまいに、女が怯えつつも蔑んだ表情を見せたのは、やっぱり俺のルックスが原因なんだろうな。 ま、仕方ねえか。何せどこをどう見ても、中年のおっさんだからな、俺。 しかも最近の俺ときたら、年のせいか余分なお肉が日々その存在感を増してきているし(いや体は鍛えてはいるんだよ、体が資本だし。ただそれ以上に脂肪がさあ、ラードの奴がさあ・・・)、目つきも荒んだ収容所暮らしのせいで悪くなる一方なものだから(これに関しては、目つきが悪いのは生まれつきだという根も葉もないデマを言う奴がいて困る・・・)、見た目は完全にゴロツキのオヤジである。  「あの、こちらの方が、その・・・」 気落ちしたような、すがるような口調で女は管理官に尋ねた。 なるほど、実際に見るのは初めてってわけか。いや、こんなもんですよ王女様。どいつもこいつも俺と五十歩百歩だぜ。 とはいえ、信じられないのも無理ないところかもな。  こんなおっさんが「勇者」だなんていわれた日には。