三章 自由への道(にんげんになるのが ゆめなんだ。)
【第21話】
目の前に広がる空は広い。空はこんなに広かっただろうか。大地はこんなに果てしなかっただろうか。俺は歩いては、後ろを振り返った。誰もいるはずはない。
心細さに落ち着かない一方、俺の心は改めて自由を感じていた。三人で逃亡していた時だって自由だったのだが、その時はまだ逃亡中という意識があったから、自由を感じる余裕はなかったのだ。
一人きりになった今、意識の上では俺の逃亡生活は終わりを告げたのだ。勿論、実際には終わっていないことは心の奥底では俺も理解している。
だが、それにしてもこの空の青さはどうしたことだろう。頬をなでる風の清涼さはどれほどだろう。俺は、一人きりの心細さを感じていたが、それ以上に自由を感じていた。
そうだ、これが自由なのだ。
俺は思わず叫んでいた。
俺の叫びは遠くこだましていった。
逃亡中とはいえ、これくらいいいだろう。
何せ、俺は生まれてこの方ずっと収容所暮らしで、壁に囲まれて生きてきたのだ。その嬉しさはとうてい抑えきれるものではなかった。
別れてから三日後、俺は山の中の集落に出た。ごく小さい集落だ。
念のため、遠くから様子をうかがった。
特に変わったところはない。まあ、こんなところまでに捜索の網を広げる余力は派遣協会もないだろう。
そうはいっても油断は禁物だ。
派遣協会としては、初動の探索が空振りに終わった今、その後も探索を組織的に続けるとは思えない。だが逃亡者の追跡とは別に、もともと世界の各地には派遣協会の調査官がいる。
調査官は一般の人間に溶け込み、潜伏し続け、情報を収集するのだという。そのため、見た目で調査官かどうかを判別するのは難しい。
この先、他人と接する時は常に、その人間が調査官である可能性を考慮しなけばならないのだ。俺は肝に銘じた。
だが、人の世で生きていく以上、他の人間との関わりを全て絶って生きるのは難しい。どこかで、人と交わらねばならない。俺は村に入ることにした。
俺は旅人を装って村へ入った。向こうに田畑が見える。農村のようだ。村の中にある家はどれも質素で簡単なものだった。広がった田畑の規模から考えると、ほぼ自給自足の生活なのだろう。
日はすでに傾いている。茜色の空に小さなあばら家が影となって、黒く浮かんでいた。夕餉の仕度だろうか、そこかしこの家から湯気が昇っていた。いい匂いをさせている。
思わず吸い寄せられるようにして、俺は近づいた。勝手口の窓から中をのぞいた。
貧しいながらも幸せな生活とはこういうのをいうんだろうか。俺は思わず柄にもないことを思った。
優しげな女が楽しげに夕食の準備をしている。その後ろでは幼い子どもが二人、食事ができあがるのを今か今かと待っている。小さい弟は我慢しきれないのか、しきりに母親をせかしている。それをいさめるように年長の姉が弟をなだめていた。
どこにでもある、ごくありふれた場面だ。
俺は思わず目をそらした。
ゆっくりとその家の壁にもたれるようにして、しゃがみこんだ。
辺りを見回すと、家という家から暖かな光とにぎやかな声が漏れていた。
あの全ての家に、今、俺が見たような幸せの風景があるのだろう。
俺は体が震えた。いてもたってもいられない。
今まで感じたことのない強烈な孤独感が俺を襲った。
先ほどのぞいた家の中から声が聞こえた。
どうやら母親が年長の子どもに焚き木を取ってくるよう頼んだようだ。
家の扉が開いた。
こちらへ向かってくる。うずくまった俺には気づいていないようだ。
俺は後ろを見た。そこに焚き木があった。
焚き木を取りに来た子どもはようやく俺に気づいた。
今は夕暮れだ。子どもからしたら、暗がりに大男が突如あらわれたんだ。さぞかし驚いたことだろう。おまけに俺はこの凶悪なご面相だ。泣き出しても不思議じゃない。
せめて、悲鳴をあげるのだけは勘弁してくれよ。俺は思った。
だが、子どもは泣きもしなかったし、悲鳴もあげなかった。
「大丈夫?どこか痛いの?」
子どもは俺に訊いてきた。
俺は、泣いていた。
大丈夫、どっか痛い、再度尋ねて、子どもはうずくまった俺の頭をなでた。
俺の涙が止まることはなかった。